“私”という一人称について。

私は“私(わたし)”という一人称を使うことに違和感があります。『私』という単語が持つ印象と自分自身の「らしさ」が永遠に綺麗に混ざらない、そんな違和感。なので、たまに“自分”を使います。

しかし、文章的に“自分”が私自身を指してるのか相手自身を指してるのかややこしくなる時もあり、それはそれでまた後が面倒そうなので結局“私”を使うことが多いです。

 

ちょっと変わってジェンダーのお話をすると、私は身も心も女性ですが、「可愛い」より「格好いい」が好きな女です。

格好もショートヘアで男物の服を着ているので、男性と間違われることも多いです。

男性に間違われて嫌だと思ったことはないです。ただ同時に、男装をしているつもりも、男性に憧れている気持ちも男性になりたい気持ちもないです。

ただ自分好みの格好やそれに合った仕草をしたら自然と男性らしくなっていて、つまり逆を言えば女性らしくはないというだけです。

 

そんな自分は『私』という単語に対して「女性らしい、丁寧、上品」という印象を勝手に持っています。

そのため、私が“私”という一人称を使うことは、女性らしさのかけらもない自分が自身を指すために女性らしい一人称を使う、ということになります。それは自分にはとても歪で違和感があることで、つまりは私に“私”は似合わないという結論になってしまうわけです。

 

でも、それも変な話だなと思う自分も居ます。

『私』という一人称は男性でも一般的に使います。なので、そもそも『私』という単語に女性らしさや男性らしさという要素を絡めること自体が変な話です。

しかし小さい頃に「俺or僕=男の子、私=女の子」という印象が自分の中に定着してしまったらしく、そこから今も抜けられてない。だから、“私”に対して違和感なんか持ってしまったのだろうと思います。

 

ところで、女性らしさ男性らしさって何なんでしょう。小さい頃から何となく引っかかっていたことです。

自分は格好いいものが好きなのだと気付いたのは割と大人に近づいてからのことで、小さい頃は可愛いものに抵抗があることしか認識できていませんでした。

それでも、それで十分でした。「女の子らしさって何?」と思うには。

そして、今だからこそまた改めて思います。

「女性らしさ男性らしさって何なのだろう」と。

 

そういえば、自分の好きな格好をするようになって気付いたことがありました。

それは、私自身女性であることにこだわっていないことです。究極で極端なことを言うと、敢えて今あるジェンダーの区分に自分を当てはめるとしたら上記の(ジェンダーの話の最初に書いた)ような言い方になるけれど、正直男でも女でもどっちに当てはめられても別に良いと思っているということです。

そしてそれよりも、別に無理して自分を区分の中に当てはめようとしなくても良くない?というのが、自身のジェンダーに対する私の考えです。つまり、世の中には色んなジェンダーの区切りがあるけれど、自分はそこにピッタリはまる必要はなくて、私は私で居られればそれだけで十分だなぁ、ということです。

 

ん?ちょっと待って下さいね。

区別なんてどうでもいいというならば、女性らしさ男性らしさとは何かと考えること自体そもそも変な話ですね。

そして、そんな区分なんて関係ないと言っている自分が“私”を使うことに違和感を持つのも、変な話になりますね。

 

そうか。そうですね。

どうやら私は矛盾していたようです。

こうしてぐるっと考えた結果、どうやら私が「女性らしさ男性らしさとは何か」を考えるのは考えるだけ無駄(というか答えはもう出てる)であり、私が“私”を使うことに違和感を感じることもそもそも意味がないことになりそうです。

昔から私が抱えたままの印象と今持ってる私の考えを結びつけて考えたことが無かったからこうなりましたね。

 

んー?

それでも改めて“私”という一人称について考えると、やっぱり違和感がありますね。何故だろう。

 

「女性らしい」という印象を抜きにしても「丁寧、上品」という印象に対して自分が似合ってないからですかね。

なるほど、それなら私はそれに似合う私になれば違和感なく使えるようになるということですね。なるほど、それならできそうです。

 

そうだ。2024年はそれを目標に生きてみるのも良いかもしれませんね。

 

急に自己完結してしまいました。

勝手に自分の中で腑に落ちてしまいました。

お騒がせしました。

自分語り。

自分語りをしたとき、大体2週類の反応が返ってくると思います。1つは素直に受け入れられるパターン、もう1つはうざがられるパターン。

この2パターンに差があるのは何故なのか。

 

自分は、今のその人が周りからどう評価されてるのかの違いだと思っています。

今その人がそれなりに周りから評価されている人ならば、昔のその人の経験を聞いて、あぁ、だから今のその人が在るのだなと納得する。

しかし、あまり評価されていない人は、昔のその人の話を聞いたところで、それよりも“今”あなたにはこういうことをして欲しいのだけれど、と流される。

 

「昔は凄かった」と言っても、今でそれを証明できなければ意味がない。

というのが、私の個人的考えです。

 

勿論、年を重ねたり病気になってしまったりで、物理的に今できない、ということがあるのは承知してます。

 

ただ、過去があるから今がある。

経験から得たものが、今のその人の人となりや思想を築いている。と、私は思っているので、

やはり、過去の自分を証明できるのは今の自分の姿しかないのかなと。

 

つまり何かというと、自分語りがしたいとかそういうことではなくて、

過去の自分の頑張りを今の自分で無かったことにしたくない、ということです。

 

で、もっと言うと、

過去の自分を誇りたければまず今の自分を誇れるようになれ、です。

 

まぁ、そう何となく思いながら、今日も何となく生きてます。

敬語が外れやすい。

ブログというものをはじめてみたけれど、続けなきゃという気持ちはなくて。

というのも、続けなきゃと思うと、思えば思う程続けられなくなるので。

だから、「書きたいときに書く、で、その媒体は既にある」という状態があればそれでいいなと。それだけで充分だなと。

そう思っています。

 

それと、これは今書いてて思ったことですが、「です・ます」をどうしようかなと。

正直なことを言うと、自分的にない方が自分の言葉が出やすいというのはあります。

ですが、自分は日常的に敬語が外れてしまうこともたまにあるので、自分の中に定着させるという目的で「あり」でここでは書こうと思います。

 

だいぶ崩れていると思います。ご容赦ください。そしてすみません。

 

で、これも今書いてて思ったことですが、なんで自分敬語外れやすいんだろうと。

 

おそらく理由は2つあるなと思いました。

 

1つは、自分の性格や思想が変化する過程の影響で、半分わざと、若干不真面目になったから。

 

私は元々くそ真面目な人間でした。

でも、ずーっと気持ちを張り詰めて生きていくなんて無理なことです。

昔の私は気持ちの緩め方を知らなかったので、遂にプッツンと張り詰めた糸が切れたことがありました。

 

そこからはもう、ずっと頑張って登ってきた崖を一気にゴロゴロと転がり落ちて、堕ち切ってしまって、あーあ、となる訳です。

その状態になった私は「純粋に頑張ることができない。仮に頑張ってもまた今みたいに堕ちてしまうなら頑張ることに意味などあるのか」と思う訳です。

 

そう思ってしまったらもう、堕ちるしかなくなります。

真面目に毎日行っていた学校もサボるようになる。勉強もしなくなる。テストで沢山0点をとる。

 

それでもまだ「頑張ってまた登らなきゃ」という、どこからくるのかわからない使命感が若干残っているから厄介なんですよね。

そう思うけど実際は何もできなくて、どんどん自分が嫌いになって、どんどん堕ちていくわけです。ただの悪循環。負の連鎖です。

 

その中で、親からずっと耳にタコができるくらい言われてきたことが自分の中で少しずつ響いてきます。

 

「基本的にしなきゃいけないことなんて無い。好きに生きろ。楽しく生きろ。」

 

堕ちてやっと、この真意を少しずつ理解して、そしてだんだんと、あぁそうかそれでいいんだ、と自分の思考がシフトしました。

 

まず、「しなきゃいけない(must)思考」をやめました。

やめたけれど、それでもやっぱり自分の根っこには真面目な所が残っているので、意識的にしないようにしました。

 

意識的にしないようにするために1番やりやすかった方法が、若干わざと不真面目になることでした。

もっと言うと、言葉遣いを崩したり基本的にへらへらすることです。

『形から入る』ということですかね。

 

そしてここで敬語が外れやすい2つ目の理由、

このへらへらとした態度のまま自分の思考分析を行うようになったから、です。

 

前回のブログで「言語化が苦手だから自分だけのTwitter(X)に色々書くようになった」と書いたのですが、言語化が苦手で何が困るかというと、おしゃべりが上手くできないこともそうですが、1番大きいのは自分の意見や感情がはっきりとわからないことです。

 

しなきゃいけないことがないのなら、自分のしたいことはなんだろう、と考えたとき、本当になんなんだろうと、若干困惑しました。

そこでやっと、自分が何を思っていて何をしたいと思っているのかを自分自身が把握していないことに気付きました。

人間としてどうなんだと思うのですが、本当に。本当にわからなくて。

 

だから、Twitterに自分の頭の中に思い浮かんだことを書きまくりました。

 

書きまくって、自分の中だけにあったものを外に出して形にしていくうちに、やっと自分がどういう人間であるのかに気付けました。

そしてそれと同時に、自分はやっぱり無意識に「must思考」にいきがちだということもわかりました。

なので、取り敢えずまず強引に自分の思考態度を変えました。

 

そこで“不真面目”と“へらへら”です。

この態度を基本軸にして自分の考えを文章にするようになりました。

 

そしたら、

定着させすぎました。

 

『良い塩梅』って難しいです。

 

なんの話からこの話になったんでしょう。

でも、私の中ではよくあることなので、多分これからも私のブログはこんな感じになるでしょう。

 

ただの自分語りを長々としてしまいました。

こんなブログ、最後まで見てくれた方いるのだろうか。

いたら、ありがとうございます。

 

あ、それと、

今の自分が、私という人間で今居られるのは、あの言葉を何回も何回も言ってくれた両親のおかげなので、感謝しかないです。

 

だからこそ、

自分の人生を楽しむこと。

その姿勢を見せることが、私にとっての親孝行だと思っています。

おしゃべりが苦手。

おしゃべりが苦手です。

でも嫌いじゃないです。むしろ好きです。

 

自分は言語化するのに人よりも時間がかかるなとよく思います。

だから、おしゃべりな人はみんな尊敬します。素直に。なんであんなにスラスラと言葉が出てくるんだろうと。

 

昔あまりにも苦手すぎて困ったので調べたことがあります。

で、言語化が苦手な人は『ちゃんと考えていない』と書いてあって結構ショックだった記憶があります。「いや考えてるが?」と。

詳しく読むと、どうも、アウトプットせず自分の中で考えただけで思考が止まっているので論理的に整理できていないのだと。

なるほど、つまり私は思考をアウトプットすることを日常的に怠っているのかと。確かに振り返るとその通りかもしれないと思いました。

 

そこで、手始めにX(旧Twitter)に自分だけのアカウントを作って色々書いてみることにしました。こう言われて嬉しかったとか、こういうことされて嫌な気分になったとか、なんとなく今イライラするとか。

そうしていくうちに、自分の今の感情とか思考がわかるようになり、自分という人間がどんな奴なのかを知ることに繋がった。ついでに自己肯定感も高くなった。

正直Twitterやってめちゃ良かったなと思いました。

 

しかし、おしゃべりが苦手なのは今でも変わらずです。

 

なぜか。

 

私の場合、インプットが多くてアウトプットが追いつかないからかなと。

 

私はHSPなのですが、社会ってすごいですね。いろんな情報に溢れすぎてて目が回ります。

自分がそういう体質で、いろんな物事に反応してしまう、その処理が追いついていなくて思考がこんがらがって言語化も遅くなる。

だからおしゃべりが苦手なんだろうなと思っています。

他にも要因はあるかもしれないですが。

 

他愛のない話をするのが特に苦手です。その場を繋ぐための中身が詰まっていない話。

その人が何を思っているのか掴みづらいし、自分も何を言えばいいんだと若干考え込んでしまうので、何をしてもしらけることが多いです。

でも、社会って、特に仕事ってそういう会話多いじゃないですか。加えて、特に仕事の場は刺激が大きいいろんな情報が飛び交っているので、インプットからアウトプットまでの道が大渋滞しやすくて。

だから正直、学生の頃よりも社会に出てからの方が会話が下手になった気がします。

 

社会で生きるのって大変ですね。

 

でも人は好きなので、人となりを知れるおしゃべり自体はやっぱり好きです。

自分すごくダメな人間だな。

はじめてのブログでいきなり会社をサボった話を書き、そのまま反省の色を見せていない自分、普通にすごくダメな人間ですね。

 

迷惑をかけてしまって申し訳ないと思っています。もちろん。

ただ正直なことを言うと、自分のことだけにフォーカスして考えるとサボってよかったと思っています。

なぜなら、こうしてブログを始めることができたからです。

 

最近、仕事が中々に忙しく、自分の今の生活に関してモヤっと思うことがあっても向き合って考える暇がありませんでした。

このまま向き合わず”もや”が溜まり続けていたら、なんとなく嫌な思いばかりが膨らみ、極端で否定的な思考しかできず、「仕事が嫌だ」「辞めたい」と本気で思っていたかもしれない。というか、勢いそのままに辞めていたかもしれない。

しかし溜まった”もや”に今日向き合えてはじめて、自分は今の仕事を辞めたいわけではなく、自己を日常的に出せていないことにストレスを感じているのだと理解できた。

 

だから、「寝坊の言い訳に仮病でサボる」なんて本当に許されることではないのですが、超自己中心的に考えればサボって良かったと私は思っています。

 

こう思ってしまうのも、自分ダメな奴だなぁと思います。

 

「忙」という字は「心」を「亡くす」と書きます。

仕事がたくさんあるのはありがたいことです。それでも、忙しさで自分の心の内を見失うのはそれもまた違うなと思うわけです。

と父が昔言っていました。

私もその通りだと思ってます。

 

つまりは、休息はしっかりとりましょうということですね。

はじめてみた。

はじめまして。

はじめてみました。

どんな形で出るのかわからないのですが、とりあえず書いてみます。

拙いですがお許しください。

 

ブログというものに興味がありました。

ただ、今は会社を仮病でサボった勢いで文章を書き連ねております。

何をしているんだと思うでしょう。自分でも思っています。

 

朝、寝坊をし、「このまま会社をサボる」という選択肢が浮かび、そこで「出勤」よりも「サボる」の方に自分の選択が全振りした時、自分がそうするということはそういうことなんじゃないかと思い、気づいたら『フリーランスで働く方法』を調べていました。

 

けど、それもなんか違った。

今の働き方について思うことはたくさんある。けど、だからと言ってフリーランスになって仕事をするというのも、調べてみたらどうも自分のしたい働き方とはまた違うらしく、その働き方をするのなら今のままでいいと思ってしまった。

 

振り出しに戻ってしまいました。

じゃあ、どうすれば自分のこの状態が改善されるだろう。

そこで、趣味の範疇で何かをしてそれを外に出そうと思ったわけです。

 

自己表現と言うのでしょうか。今の自分にはそれが充分にできてないと思ったわけです。だから、自分の中に”もや”が溜まって、なんとなく嫌な気持ちになる。だから否定的な思考が多くなる。

会社では、自分のありのままで自分らしく仕事をするということが中々難しいと感じます。でもそれは、会社自体が何か悪いのではなくて、単純に私自身が自己表現をのっけたコミュニケーションが下手なんだろうなと思っています。

 

だから、自分のペースで自己表現をして、それを自分の中だけで完結せず外にも出せば少しは何か変わるかなと思ったわけです。

 

だから今ここに来ました。

 

文章に自信はないです。ただ、自分で何かを生み出す能力もなく、思っていることを書くだけなら自分にもできるなと思ったので、ここに来ました。

 

そんな私です。